光農園

池田 光星さん

逆境でも挑戦をやめない
時代に合わせたあり方を探るお茶の開拓者

与論開拓団が切り開いた盤山の茶畑

田代地区にある光農園の三代目・池田光星さんの茶畑を訪ねた。標高の高い山あいにある茶畑は、空を流れる雲が近く感じられ日常の喧騒が遠くに感じられるようだ。

錦江町のお茶は大きく「大根占茶」と「田代茶」の2つに分かれる。「大根占茶」は海岸部エリアで作られ、その温暖な気候から県内でいち早く新茶の摘み取りが始まる。一方山間部エリアの「田代茶」は、寒暖差のある気候から香りよく甘味のあるお茶になる。

「田代茶」を作る光農園の歴史は、池田さんの父方の祖父の代に遡る。与論出身の祖父は与論開拓団として満州に渡った後、敗戦によって引き揚げてきた。当時の与論はアメリカ占領下で帰島しにくい状況であったため、開拓団は肝属郡田代村(現錦江町)を新たな入植地と決めてゼロからの再出発を図る。集落名は満州での開拓地と同じ盤山と名付けた。

大木が生い茂る深い山間の傾斜地、開拓団の人たちは道具も十分に揃っていない中、木を刈り、根を掘り起こして畑を開墾した。サツマイモや小麦、蕎麦などあらゆる作物を植えて試行錯誤した後、標高が高く霧が立ち込める田代の気候がお茶栽培に最適であることがわかり、地域一丸となってお茶に取り組むことに。

池田さんの母方の祖父も同じ与論開拓団であり、父方の祖父と共にこの土地を開墾したひとりだ。「母方の祖父は戦時中に戦車に乗っていたようで、茶畑を作る際はブルドーザーに乗って開墾したと聞いたことがあります。当時はお茶の機械といえばブルドーザーしかなかったようです」

こうして作られたお茶は良い評価を得られるように。『与論移住史』には、昭和36年には「県内の一番茶が1キロ300円から400円だったのに、盤山の茶は1キロ600円もした。品質の良さが認められたのである」と記されている。他の地域の1.5~2倍の値がついていたのだ。評価を受け、開拓地だけでなく田代町(現錦江町)全体でお茶への意欲が高まっていくことになる。

それから60年以上の時が流れた現在、機械化が進んだこともあり山の中に点在していた茶畑は少しずつ手放して、集約して作業しやすい環境に整えてきた。祖父の代からの茶畑は、今は一部を残すのみ。

現在田代の茶農家は10人にも満たない。「今は数少ない田代の茶農家の方々と行ったり来たりで協力し合いながらやっていますが、従事する人が減ると、かぶせなどで人手が必要な時期に人員が確保できないので今後が心配です」

茶価の低迷や消費者の急須離れ、人手不足とお茶農家を取り巻く環境は厳しい。「転換期に来ている」と池田さんは言う。それでも「続けられる限りお茶を続けたい。これが本当に心からの願いです」と言葉に力を込める。逆境の中、池田さんは有機や玉露栽培にいち早く取り組み、各地の茶農家を訪ねて学ぶなど、挑戦する意欲を持ち続けている。

与論開拓団が開墾した茶畑の風景は時代の流れと共に移り変わっていく。しかし逆境に抗って奮闘する精神は、時代や状況が異なりながらも、どこか根底でつながっているのかもしれない。

家業への責任感が芽生えた高校三年生

子ども時代の池田さんは、お茶の手伝いは好きではなかったという。当時は機械が入りにくい段々畑ばかりだった上に、機械が使えても今と違い操作に神経を使うものばかり。「小さかったので肥料をいっぱい入れた機械をひっくり返したり、土手に落ちそうになったりしていました」

畑に防霜ファンは付いておらず、翌朝に霜が降りそうな気候のときは、深夜にバロン(*)を被せに行く。冷え込む夜間の暗い山中での作業である。さらに、翌日は日に当てるために再びバロンを取りにいかなくてはいけない。それを冬の季節に何度も繰り返す。

高校は鹿屋農業高校へ進学して3年間寮生活を送った。親からも家業からも離れた新天地では鹿児島各地から来た生徒と知り合い、新しい出会いに、部活にと充実した日々を送った。学校では牛の世話や果樹栽培、米作りなどを経験し、将来は何かしら農業に携わろうと考えていたが、お茶は考えていなかったという。

では、いつからお茶が選択肢に入るようになったのだろうか。それは農大への進学が決まっていた、高校三年の卒業間際になる。

「その頃に親父が亡くなりました。僕は寮生活でほぼ実家にいなかったので、その時どう感じたんだろうな……。あまり覚えていないですけれど、親を助けなきゃみたいな気持ちはありました」

周りからは働きながら勉強できるから「帰ってきてお母さんを手伝ったら」と言われていた。そんな中、池田さんの農大進学を熱心に後押ししたのはほかならぬ母だった。「とりあえず農大に2年間だけは行かせてやってほしい」と周囲を説得してくれたという。

進学後はお茶に携わる将来を真剣に考えるようになるが、実は父が亡くなる前にこんな言葉を交わしていた。「父は仕事で多く語らない人ですが、農大へ行く話をした時には『今からお茶は厳しくなるから、せんほうがよかど』と言われていました」

そこでなぜあえてお茶を選んだのだろうか。「逆にそう言われたからこそ、もう少し何かできることがあるのかもと思いました」と池田さん。責任感のようなものが、高校生ながらも少しずつ芽生え始めていたのかもしれないと振り返る。

逆境にありながら、挑戦を続ける

農大卒業後に錦江町に戻ってきた頃、お茶の価格はさらに低迷し、父の言った通りの厳しい状況になっていた。「昔はいいものを作ったらそれなりの評価はされていたみたいですけど、今は質に関係なく相場で価格が決まってしまいます。市場のお茶の量が増えていたり、問屋がお茶の在庫を一杯抱えていたりすれば必然的に単価は下がってきます」

逆境でも前向きにやってこられたのは、意欲的に取り組む同業者の存在が大きい。いち早く先進的な取り組みをするお茶農家の元を訪ね、わからないことを教えてもらい刺激を受け、研修会や勉強会に参加しては新しい技術を学んだ。池田さんがまず着手したのが有機栽培だ。

「有機JAS認定のお茶だと引き合いが強く単価が上がる傾向にあるので、始めようと思いました」

今でこそ錦江町に限らず、お茶業界全体で有機栽培は増えているが、当時は錦江町で有機栽培に取り組む農家は少なく、周りは懐疑的な反応だった。早い段階で慣行から有機への切り替えを決断したことはいい財産になったという。その後は玉露栽培にも着手し、近々玉露も有機JAS認定を取得予定で、お茶の価値を高めるために奮闘している。

現在は茶畑全体の2割弱が有機栽培だ。「しっかり目の行き届く範囲でやりたいので、今の自分の能力的にこのくらいの量がちょうどいいかなと」と、質重視の考え。物価高騰の影響もあり肥料価格が年々上がっているので、いずれは肥料づくりも視野に入れている。

「肥料は苗質にも影響するので、自分で作っていっぱい肥料を打てる体制を整えた方がいいお茶を作れるんじゃないかなと」。材料は赤潮被害で廃棄予定の魚など、身近で得られるもので構想中だ。地域に根差した材料で作られる田代のお茶、それはなんだかとても豊かなもののように思える。

地域ぐるみの交流を広げたい

池田さんの母は「やりたいことはやればいいよ」というスタンスで、有機栽培など新しい取り組みには一切反対することなく応援してくれた。

「親父となら衝突していたかもしれません。父親と喧嘩したっていう周りの二代目、三代目の話はよく聞きますね。でも僕はそれがないので逆に羨ましいです。みなそれぞれのやり方や思いがあるわけじゃないですか。『昔はこうだった』『今はこうなんだ』みたいなやり取り、してみたかったなという思いはありますね」

お茶に携わって15年以上の時が過ぎた。その年月の中で、「光農園のお茶を知ってほしい」から「田代、錦江町のお茶を知ってほしい」へと気持ちが変化していったという。

「帰ってきたときは自分ちのお茶が一番だと思っていたし、それ以外飲んでいませんでした。若いから尖っていたんですよね。でも青年会に入っていろんな茶畑を見に行って『こういうお茶もあるんだ』『おいしい』と感じるようになりました。今は、個人に囚われるんじゃなくて、他の茶産地を含めた全体の良さを知っていた方が自分のためにもなるし、広がりがあると思っています」

今後は県内各地のお茶農家の取り組みを学びに行ったり、地域ぐるみで交流したりする機会を積極的に持ちたいという。県外で開催されるお茶のイベントに参加する際は、近くのブースのお茶農家と交流するなど、お互いのお茶や産地を知ることを大事にしている。「みんなで元気になっていけるといいのかなって」

おいしい一杯でつなぐ、お茶の未来

池田さんは、お茶を知ってもらう機会を増やすことにも積極的だ。最近は、子どもたちが錦江町の各家庭に数日滞在する体験プログラム「農村留学」の受け入れ先にも手を挙げた。「もし春先なら茶摘みの体験をしてもらいたいですね。自分の子どもも一緒に連れていきたいです」と意欲的な様子。

さらに、所属している肝属地区茶業青年部を通じて小学生を対象にした「おいしいお茶の入れ方教室」で講師を務めることも。今は急須を置いていない家庭も増えており、お茶を入れる手順を知らないのは子どもに限った話ではない。池田さんは初めておいしいお茶の入れ方を知った小学生の反応を見るのが楽しいのだという。

「まずは子どもたちで自由に入れてもらうんです。そうすると、急須にそのまま熱湯を注いで、スプーンでかき混ぜたり。飲んでもらうと第一声が『苦い』『おいしくない』『熱い』なんですよね」

お茶はお湯の温度で味が変わる。適温の70度くらいで入れるとお茶の甘味や旨味がしっかり出て飲みやすくなる一杯あたりの茶葉の量は浅蒸しなら1人分4g、深蒸しは3gぐらいだ。

「お湯の温度、お湯の量、蒸らし時間をしっかり守ればお茶は誰でもおいしく入れられます。子どもたちから『お茶ってこんなにおいしいの?』と言われると、僕も嬉しくなりますね。ここで覚えたことを、帰ったらお父さんお母さんにも教えてねと伝えています」

錦江町の畜産農家・川路さんの家庭では、池田さんが教室を開催したまさに翌朝、娘さんがお茶を入れてくれたそうだ。池田さんの教室に参加した子どもたちが家族に伝え、家庭内でもおいしいお茶を囲んだ団らんが広がっていく。

昭和の時代に与論開拓団が切り開いたお茶の道、時代に合わせて次世代につないでいく池田さんの挑戦は続いていく。

(*)バロンとは、太陽光を遮る黒い被覆資材のこと。茶畑に被せることで、茶葉の甘味を増し、色味を鮮やかにする効果がある。

取材・文 | 横田 ちえ
写真 | 小野 慶輔