錦江町役場・未来づくり課

中島 裕二さん

異質なものを
面白がれば世界が広がる

6年前のある日、役場の電話が鳴った。「また牛が逃げ出しちょる」。町民からの通報だった。過去にも何度か牛の逃走はあり、そのたびに役場の担当者が出向き捕獲していた。その日も駆けつけると、神川海岸にくっきり牛の影が見える。ところが近付いても微動だにしない。なんと、それは真っ黒に塗られたベニヤ板だった。

この騒動を耳にして、心の内で「いける」と思った人物がいた。当時の観光交流課・課長、中島裕二さんである。

牛は、中島さんたち職員が錦江町の夕陽をアピールするために置いた影絵の試作品だったのだ。その後、神川海岸は影絵アートのスポットとしてSNSで反響を呼び、遠方からも人が訪れるランドマークになった。

「日本一小さなまちの合併」に悔しさ

「錦江町の秋元康」。そんな異名をとる中島さんは、数々のプロジェクトを発案して仕掛け、話題にしてきた人だ。どんな話も愉快そうに話す。35年におよぶ行政キャリアをもちながら「行政職員」の枠にハマらない人だ。
現在は、未来づくり課の課長をつとめている。

「私は合併前の旧田代町の出身で、元は田代町の職員でした。若い頃、うちのまちはどこにあるかもわからんと馬鹿にされて悔しい思いをしたんです。日本一小さなまちの合併だなんて言われてですね。ここを誰もが知るまちにしたいという思いがありました」

学生時代に東京で暮らしていた経験もあり、中島さんは「役場でも、アイディア次第で民間と同じくらい面白いことができる」と信じて実践してきた。

影絵を思いついたのは、これも自ら考案したご当地アイドル「くわがたガールズ」の撮影中だったという。

「夕陽がきれいな町は他にもありますが、何か違った形で夕陽をアピールできないかとずっと考えていました。撮影の時に映ったシルエットを見て、これだ!と」

神川海岸に立つと左手に開聞岳、右手には桜島が見える。夕陽の沈む時間帯はとくに美しいスポットになった。海との境界線がオレンジに染まり、上空にうっすら黄色から濃紺へのグラデーションが広がっていた。

その後、中島さんや職員が置いた影絵は見事に人を集めることに成功した。いまも砂浜にはイルカや人物、乙姫様などいくつもの影絵が置かれていて、夕焼けを背景にシルエットがくっきりと浮かび上がる。

「今では、この影絵を見にわざわざ広島から来たという方もいて、ああ、ここが一つの目的地になったんだなと感慨深いです」

役場でも民間に負けない面白いことができる

中島さんの長いキャリアの中でもさらに思い出深いのは、あるコンビニエンスストアとの商品開発事業だという。錦江町で初めて全日本大学選手権の自転車レースの開催が決まった際、中島さんは、PRのために、コンビニでコラボ商品を販売できないかと思いつく。しかしツテがあるわけでもない。一行政職員からすると、高い高い壁に思えた。

まず飛び込んだのは、そのコンビニに品を納めている地元のパン製造会社だった。

「A41〜2枚の企画書を勝手につくってですね、自転車レースにちなんでサドルパンをつくりたいと。この機会を逃すわけにはいかないんだと熱く語りまして」

前代未聞の訪問に困った顔をされたが、出てきた営業課長が偶然高校の後輩で「ローソンの本社に行って話した方がいい」と教えてくれる。その後さっそく、本社ではなく最寄りのローソン店に寄ったというのが中島さんらしい。ここでもたまたまエリアマネージャーらしき本社の人間に遭遇。その人が話を聞いてくれた数週間後、役場に電話が入った。

「サドルパンを県内のローソン200店舗で販売することが決まりましたと。それも製造販売にかかるお金はすべてローソンがもちますと」

ツテがない、前例がないといった前提にとらわれず、とにかく動く。わからない中、手探りで進み、糸口を手繰り寄せていくのが中島さんの仕事の仕方なのだ。

「高い壁だと思っていたコンビニとのコラボレーションが、何とか実現したんです。この経験は自分にとっても大きかったですね。だから若い人にも諦めないでどんどんチャレンジしてほしい」

これまで「そんなこと、役場職員がするべきなのか」という批判もたくさん受けてきた。受け止めながらも、歩みは止めなかった。

サドルパンは、結果、思ったほどは売れなかったそうだ。でもそれでめげる中島さんではない。今度は、錦江町の一方的な思いだけでなく、「商品をつくるプロセスから協力者を増やし、買い手の裾野を広げよう」と、鹿児島純心女子短期大学と包括的連携協定を結び、学生と商品開発をしてコンビニで販売することに。

翌年、学生が錦江町で育てた「田代米」の米粉を生地にし、大根占茶入りのホイップクリームを使用した「生どら焼き」は、学生の親のネットワークも手伝って、発売初日から売り切れが出るほどの人気に。限定5万個を完売した。
そうしてローソンとの付き合いは、10年以上続いたのだという。

ほかの土地から企業を惹きつける源は

そんな中島さんが、2021年から配属になったのが未来づくり課で、旧神川中学校の廃校を活用した「地域活性化センター神川(サテライトオフィス)」が職場となった。サテライトオフィスは町が始めた新事業だった。ところが中島さんが配属された時、入居している会社は一社もなかったのだそうだ。

「正直、最初は思いましたよ。これは役場がやっちまったんじゃないのと。空港から遠くて、公共交通機関もないこの町にわざわざ進出する企業などあるわけないと思っていましたから。サテライトオフィスの意味なんてまったくわかっていなかったんです」

さまざまな企業に手当たり次第メールを送るもうまくいかず、次に考えたのが「ワーケーション」をアピールすることだった。

「SUPや山登り、温泉などアクティビティを色々提案しましてね。でも、そうした娯楽は、指宿や霧島など他にも先進地がいっぱいあるわけです」

お試しワーケーションで都市部から訪れた企業と話すうちに、気付いた。

「企業の方から『錦江町さんはどんな町になりたいの?』と聞かれるんです。わかってきたのは、これだけ利便性の悪い錦江町まで来てくださる企業は、社会の役に立ちたいという志をもっている。それも行政ではとても思い付かないような方法で、です」

ある神戸の会社がオフィスを出すことになり、中島さんは従業員が住む場所はどうしましょうかと相談した。すると社長は「ここに来るスタッフが決めたらいい」と返事してきたそうだ。

「その時も意味がわからなかったんですよ。でも今その会社は、キャンピングカーを用意して、訪れた従業員が山でも海でも好きなところに住むという実証実験をされています。それをサービス化できるんじゃないかと」

中島さんはそうした話を嬉々としてする。新しいサービスや事業を心底面白がってくれる人がそこに居るかどうかは、入居を判断する側にとっても大きいのかもしれない。

今では、5つの会社が旧神川中学校にオフィスを置いている。埼玉県の光学機器の総合商社、国産飼料を製造する会社、岡山県で木材加工などの事業をしている会社、錦江町の地域おこし協力隊の卒業生がつくったNPO法人など、多岐にわたる。

錦江町の最大の武器とは?

異質なもの、変わったものを受け入れるのは、頭で考える以上に難しい。でも面白がって受け入れることができたら、どれほど世界が広がることか。中島さんや錦江町の動きを見ていると、そう思う。

たとえば錦江町には、プロのフルート奏者で地域おこし協力隊になった女性がいる。他のどの町でも「芸術家は…」と敬遠された彼女を、当時担当課長だった現・新田町長が「面白い」と受け入れ、未来づくり課として中島さんが中心になって支えてきた。いま彼女は町にすっかり溶け込み、アーティストインレジデンスの活動を始め、15世帯が暮らす小集落にクリエイターの拠点をつくろうとしている。

このレジデンスがあったから、錦江町を選んでリモートで働き始めた映像クリエイターの男性がいた。今度はこの男性との縁がきっかけで、ある大手通販サイトと錦江町ツアーを開催することになっている。縁というのは不思議なもので、一人が一人とつながり、さらに多くの縁が錦江町と誰かをつないでいく。この男性は、錦江町を選んだ理由を「一番、自分の夢が実現しそうだから」と答えた。

中島さんは大きく目を見開いて言う。

「訪れる人たちに、錦江町の魅力って何かわかりますかと聞かれるんですよ。答えは何だと思いますか?なんと、スペース、です」

都会でスタジオを借りればお金がかかる。ここなら廃校の一室で自由に制作ができる。音を出しても都会ほど気にならない。広々と使える展示場。田舎の空間はクリエイターと相性がいい。

「またしても、まったく思ってもみなかった」と中島さんは笑った。

定年まであと数年になった。これから錦江町にどんなまちになってほしいですかと聞いてみた。

「とにかく多様性を許容するまちになってほしい。一つの山の頂上に登る道筋は無限にあると思うんです。人それぞれの登り方があっていいのに、行政というのはやっぱりこうじゃなきゃいけないと決めがち。いろんな人を認めて、地元住民も楽しみながら協力して一緒に頂上を目指すような取り組みができたらいいなと思いますね」

取材・文 | 甲斐 かおり
写真 | 小野 慶輔