南九州きのこセンター

石垣 菜月さん

日本の食卓を支える仕事を誇りに

錦江町田代で年間900トンのえのき茸を生産している「有限会社南九州きのこセンター」。長年キノコ生産・加工を続ける同社がユニークな企画を実施した。「きのこレシピコンテスト2024」だ。SNS等を活用して集めたレシピは200以上。主婦や学生などの審査員などが「作って美味しい・見て楽しい」をキーワードに優秀作品を選んだ。

コンテストを企画・実施したのは石垣菜月さん。同社社長・貫見育郎さんの娘で、現在は同社でえのき茸の商品開発や加工、品質管理等を担当している。名刺にある肩書は「えのき茸広め隊」。顔写真も印刷されていて、個性的なキノコ柄のジャケットに両手にはエノキチップス、明るい笑顔が印象的だ。

「きのこレシピコンテスト」開催にチャレンジ

「きのこレシピコンテスト2024」は2024年夏にスタートし、約2か月間をかけて開催された。応募総数は当初目標にしていた100を優に超えた219ものレシピが集まり、支援を呼びかけるクラウドファンディングでも70万円近い寄付を集めた。「キノコの手軽で美味しいレシピが集まれば、時短&節約で主婦の方にも喜んでもらえるし、それで消費量が増えたら、人件費や資材・燃料費の高騰で厳しい状況にある全国のキノコ農家も安心して生産できる。みんなが笑顔になれる企画だと思い、チャレンジしました」と石垣さんは振り返る。

「コンテストがスタートしたばかりの頃、情報発信がうまくできていなかったので、レシピの応募も少なくてどうしよう…と」。周囲からSNSの活用法を教えてもらったり、活動報告を頻繁にした方がよいとアドバイスをもらい、応募しやすいように導線を見直し、活動報告もほぼ毎日更新。活動報告には、飾らない語り口で、キノコ業界やコンテストへの想い、自身の人生経験もストレートに綴った。その甲斐もあってか、応募者や応援者が増えていき、先の結果につながった。最終的に、コンテストはテレビ、新聞にも取材され、盛り上がりを見せた。そして、集まったレシピはWEB上に公開され、キノコ食普及に一役買っている。

美容の世界を夢見て町を出た

石垣さんは、家業である同社に29歳のときに入って8年目になるが、その前は、ニューヨークでヘアメイクの仕事をしていたという異色の経歴を持つ。田代で生まれ育ち、美容の仕事への夢を抱き、最終的には海外へ飛び出した。

「昔の私からすると、今の自分は信じられないと思いますよ」と朗らかに話す石垣さん。「おしゃれなもの、キラキラしたものに憧れていたので、親が農業をしていることを隠していたし、早くここから出たいとばかり思っていました」と率直に振り返った。そして、石垣さんは美容の世界を志し、鹿児島市内の高校を経て、福岡の美容専門学校へ進学した。

福岡でヘアメイクを学んだ後は鹿児島に戻り、結婚式場でブライダルの仕事に就いた。一人の花嫁さんに向き合い、どうしたら一番美しくできるか…と全力投球する日々。エネルギーがあふれすぎていたのか、時に元気すぎる、明るすぎると叱られたこともあったと笑う。充実した日々だったが、さらに技術を高めたい、美容師免許も取りたい…という思いが強くなり、3年目で次のステップへ進むことにした。

ニューヨークで働く夢を叶える

次の夢は「海外でブロンドの髪を扱ってみたい」。しかし、どの国に行く? 渡航資金は? 美容師免許もまだない…と課題は山積。しかし石垣さんは前へ進む。昼間は美容室でアシスタントをして美容師免許取得を目指し、夜はクラブの女性キャストのヘアセットを担当し、資金を貯めた。「技術を落とさずにお金も貯めるにはどうする? ああ、夜じゃんって! 最初は40分かかっていたセットも20分でできるようになり喜んでもらえました」と振り返る。そして、資金数百万円を貯めて、行き先をニューヨークと定め、1年ほどかけて仕事や住む所を探し、家族や友人などには準備が整ってから直前に報告して旅立った。

27歳のときにニューヨークへ。美容室のアシスタントからスタートし、経験を積んだ。言葉の壁はなかったのだろうか。「最初に私が言えたのはDo you くらい。でも、言葉の壁って、言いたい人に伝えたい思いがあって、聞く人が聞こうとしてくれたら必ず伝わるんですよ。壁にはならない、って思いました」と力強く話す。「アメリカではやる気さえあれば、やってみなよって挑戦させてくれる。私には合っていたと思います。失敗もして“自由=責任”ということも学びました」。石垣さんは持ち前の努力とガッツでステップアップし、渡航して2年後には一流サロンが並ぶ5番街の美容室で働くまでになった。

「経営」をやりたいという想いに気づいた

渡航して2年経ち、海外で働く夢を叶えた石垣さんは、また将来の道を考え始める。美容業界ではトップスタイリストというキャリアゴールがあるが、莫大な収入はあるものの、分刻みで顧客の間を移動する姿を間近で見て、仕事だけに追われる生き方はできないと思った。ではサロン経営者はどうだろう。こだわりのある美容分野だからこそスタッフに細かく指示を出す姿が思い浮かんだ。「自分がスタッフだったら嫌だな」と思い、その道にも将来像は描けなかった。

自分の想いに向き合った石垣さん。進みたい道として浮かんできたのは「美容」ではなく「経営」だった。「自分で目標を決めて、実現するために『じゃあどうする?』って道を切り拓いていくのが好きなんだと思います」と石垣さん。経営のテーマとして浮かんだのが「食・農業」だった。アメリカで一人暮らしをする中で衣食住の大切さを感じ、また、アレルギーやホルモン異常で苦しむ友人もいて、健康と食の関連性も気になっていた。

「まったく知識も経験もない分野でしたが、その方が客観的に経営できるのかもと思ったんです」と石垣さん。目標に向かって突き進む完璧主義な自分の性格を分析し、経営をフラットに進めていくためにはあえて縁遠い分野に飛び込むという判断だ。美容から農業へという大胆なキャリアチェンジの理由に、なるほどと納得した。

まずは飛び込んで進みながら学んでいく

新しい道を描き始めた頃、父である社長から「えのき茸の加工を手伝ってくれないか」と声がかかった。「父の会社で働きながら、会社や経営はどういうものなのか学びたいと思いました」。アメリカを離れ故郷に帰り、「南九州きのこセンター」で働き始める。しかし、会社のために、従業員のために…と思って行動することが裏目に出て行き詰ってしまう。「だからと言って立ち止まるわけにはいかないので、まずは売上を上げることを目標にしました。生のえのき茸を持ってスーパーや小売店に飛び込んでみたり、会合に出てみたり。しかし、社会のことも知らないし、物を売る先に必ず消費者がいるということも、本当の意味で理解していませんでした」

壁にぶつかると、いつもの「じゃあ、どうする?」が浮かんだ。仕事を学ぶためには実際に経営をするのが近道、と起業を決意。そして農家と販売店をつなぐ会社を立ち上げた。そんな中、地域の農家が物流に課題を抱えていることを知り、鹿児島市内に産直で販売できる場所をつくりたいと思うようになる。願えば叶う、ということだろうか、人の縁がつながって、鹿児島市内の大型商業施設に産直コーナーを持てることになる。しかし現実は厳しく、農家を回って野菜を出荷してくれるよう頼んでも、経験が無いなどの理由で断られ続けた。中には詳しく理由を話してくれる人もいて、毎日遠方へ野菜を運ぶ難しさを指摘された。石垣さんはその問題点を改善して、また交渉して…とあきらめなかった。そうするうちに協力者が現れて、産直販売が実現していった。情報過多の時代に、何かを始める前に諦めてしまう人も多いが、まずは飛び込んでみて道を切り拓いていく石垣さんの生き方は頼もしい。「あまり情報を入れずにまずは飛び込む。その方が怖いもの知らずで突っ走れる気がするんです。知らないことは学んでいけばいいと思う」と笑顔で語る。その分、壁にぶつかることや傷つくことも少なくないが、目標を実現しようとする強い意志と情熱があれば、道はつながっていくのだろう。その後会社は順調に推移し、現在も事業を継続している。

仕事を通じて社会に貢献していきたい

「南九州きのこセンター」と青果販売の仕事の両立。実は、頑張り過ぎて心身共に疲れ果て、数年前に仕事を休んだ時期もあった。「心がギスギスしていたし、視野が狭くなっていました」と振り返る。その休養期間にあらためて自分を見つめ直し、もう一度ここに戻ってきた。「以前よりも周りが見えるようになったし、この環境にもなじんできたと思います。今は従業員が働きやすい環境をつくりたいと思っているし、みんなもついてきてくれている実感があります」と微笑む。

「きのこレシピコンテスト」の企画もそんな流れの中で生まれた。「大変でしたが、いろんな方の協力をもらって、仲間の大切さも知りました。また、主婦の方からはキノコは味方という声をいただき、食卓を支えている実感を持てて、挑戦してよかったです」と振り返る。

「なぜ、経営をしたいんですか」とあらためて聞いた。石垣さんはしばらく考えて、「遊びや趣味だと、社会に貢献ができないからかな…。仕事なら、税金を納めるだとか、雇用を生むとか、何かしら役に立てる。そして、農業は、日本の食を支え、主婦の方を助けることができてやりがいがあります。今は農業をしていると胸を張って言えます」と笑顔で語った。「経営」へのこだわりについて、そこには長年事業を続ける両親へのリスペクトもあるように感じた。「継承」とは、事業そのものだけでなく、社会的な役割を「継ぐ」という形もあるのだと、石垣さんの話を聞いて気づかされた。

石垣さんには次の夢がある。夏場にキノコ需要が落ち込む現状を憂い、「10年後には、土用の丑の日のように、夏になったら『キノコを食べる日』を日本中に定着させたいんです」と目を輝かせる。壮大な夢に思えるが、石垣さんは目標に向かって走りながら、「じゃあ、どうする?」と自分に問い、道を見つけていくのだろう。経営を軸に据えた石垣さんがこれからどんなストーリーを描いていくのか、未来の展開が楽しみだ。

取材・文 | 小谷 さらさ
写真 | 小野 慶輔