柿迫農園

柿迫 光樹さん

郷土愛を胸にイッコガンが描く夢

錦江町田代川原。標高が高く、照葉樹の森に囲まれた自然豊かな土地だ。この地域で、一人で農業に向き合う若き農園主、柿迫光樹さんに会った。

柿迫農園は県道沿いにある。農園の入り口に大きなタイヤの赤い車体のトラクターが並び、その奥に作業場がある。薄暗い部屋の机には鉄の農機具や機械油が置かれ、壁にはダンボールやコンテナが積まれていて、働く人の気配があった。奥に声をかけると、柿迫さんが出て来て、ニコッと人懐こい笑顔で挨拶してくれた。

柿迫さんは27歳。この地で生まれ育ち、農業高校へ進学。卒業後すぐに就農し、今年で8年目になる。農地11ヘクタールを管理し、米、麦、馬鈴薯、サトイモなどを作っている。農高卒・即就農と聞くと、生粋の地元農家の後継ぎのようだが、実は違う。父親は自動車整備工場に勤務していて、農業には携わっていない。柿迫さんは自分の意志で、この地で農に生きる道を選んだ。

小学6年生のときに自分の田んぼを持った

晴れた空の下、遠くに山並みと畑が見渡せる気持ちのいい庭先で話は始まった。

若くして自分の生きる道を定めた柿迫さん。幼い頃から農業以外の仕事は考えなかった、と言う。そこには、隣で暮らす祖父母の影響があった。二人はバイク店をこの地で営んでいたが、交通事情の変化により店を畳み、農業に転職した経歴がある。柿迫さんはその姿を見て育ち、土地に根差したこの事業を継ぐことを決めた。

「小さい頃から、友達と遊ぶより、じいさん、ばあさんと畑にいる方が多かったです。農業が好きというより、機械、特に農機が好きだったので、じいさんのトラクターの横に乗って…というのが楽しかったんだと思います。そのうち、野菜を自分でも作り始めて、無人販売所で売ったりして、面白いなあと思って。変わった子どもだったのかもしれないですね」

自分で畑に種を撒き、育てた野菜が、目の前で誰かの手に渡っていく。みんなが喜んで買っていく様子を見て、子ども心に感じるものがあったようだ。小学6年生の頃には「米づくりもやってみたい」と、裏庭にホースを引いて水稲栽培を始めようとした。すると、水道代が馬鹿にならない…と慌てた大人たちが、ちょうど空いた田んぼがあるからと、水田を任せてくれた。自分で苗を植え、手入れをして米を育て、いよいよ収穫の時。コンバインを入れて収量を見たときに「自分でも米が作れるんだ!」と確かな手応えを感じたそう。そんな体験が重なっていき、農家になることを決め、農業高校へ進学した。

農業高校では基礎知識を学び、祖父母のやり方しか知らなかった柿迫さんの世界が広がった。一方、幼い頃から土を触り、自らの手と頭を駆使して試行錯誤してきた柿迫さんは、先生のやり方に物申すこともあったというからユニークだ。また、同じく農を志す同級生たちとの出会いもあった。大規模農業法人の子息などもいて、当時は意見が異なることもあったそうだが、卒業後それぞれの道で農業の学びを深め、今あらためて再会して語り合えるのが刺激になっていると話してくれた。

高校卒業後は迷いなく農業の道へ

柿迫さんは、高校卒業後すぐに就農。2ヘクタールからスタートし、徐々に面積を増やして現在は11ヘクタールに。「役場の方が、農地バンクを通じて、耕作放棄地(高齢化などで作物が栽培されなくなった土地)を紹介してくれて。就農したてのときは畑がほしくてたまらなかったから、勢いでどんどん増やしました。もちろんいい場所もありますが、実は作りにくい場所もあったり…といろいろ経験しましたね」と振り返る。

実は、標高の高い田代は、大隅地方の中では寒冷な地域であり、中山間地域で平地が少なく、一つひとつの圃場も小さい、いわゆる不利地だ。柿迫さんが管理する11ヘクタールは、圃場の数で言うと200枚。北海道などの大規模農地では、同じ面積でも圃場は数枚、極端な場合は1枚ということもある。大きな圃場を農機で一気に作業するのと、小さな圃場をその都度移動しながら作業するのでは、やはり手間は違う。「自己紹介ではヘクタールだけじゃなくて、枚数も言いますよ。一人で200枚を管理するのは大変なんですよ」と柿迫さんは笑った。

農業にはチャレンジの種がいくらでもある

手間がかかる農地に一人で向き合う…。困難もあり、失敗も数えきれないほどあると言いながら、農業について語る柿迫さんの目は輝いていて、表情もいきいきしている。「(農業の)いろんなことに楽しみを見出しているんです」と柿迫さん。今は研究に夢中で、どう効率よく仕事をしていくのか、新しい農法にも挑戦してみよう…といつも考えているそうだ。本を開き、ネットで調べ、自分なりに仮説を立てて、実験する。「すべてが経験と学びになっています。農業には、チャレンジの種はいくらでもあり、天候には左右されるけれど、自分次第でいかようにもできる。ワクワクしかないですね」とまっすぐな目で話してくれた。

また、柿迫さんは、外の世界とつながり、幅広く学びを深めることも大切にしている。就農2年目に声をかけられて最初は及び腰で入った農業青年クラブ。「結果、俺が一番はまりました」。若手農家が集まり、地区で語り、県で語り、県を越えての交流もある。様々な体験談や生の声を聞くと大いに刺激を受けて、ヒントやエネルギーをもらい、帰り道では考えすぎて頭が痛くなるほど。アイデアが降りてきたり、自分が湧き立ってくるような感覚がある。外に出て人とつながってみて、得るものは大きかったと語ってくれた。

心に刻まれたふるさとの原風景

決して楽な道ではない、この地域での農業。あらためて、この生き方を選んだ理由を聞いてみた。すると柿迫さんはしばらく考えて、「郷土愛ですかね…」と答えてくれた。幼いときから祖父母と共に畑で汗を流し、10時と3時にはこの景色を眺めながらお茶を飲んだ記憶。秋に稲刈りを終えた日は、じいさんとジュースで乾杯するのがうれしかった、という思い出も話してくれた。重ねてきた祖父母との記憶、土のにおい、実りの風景…。それが、郷土愛という言葉になったのだろう。皆が憧れをもって思い描く日本の原風景を、柿迫さんは実体験として味わって育ってきた。柿迫さんは、その美しさを知っていて、それを愛しているし、これからもずっとそれを見ていきたいのかもしれない。柿迫さんが地域の耕作放棄地を積極的に引き受けていることも、その想いとつながりがあるように思えた。

「田代米」を切り札に挑戦していきたい

柿迫さんのこれからの夢は、田代の農業を効率化して、稼げる農産地にすることだ。8年間の経験を経て、一人でできることには限りがあることも実感した。今後は、柿迫農園を法人化して仲間を募り、規模を広げ、生き残れる農業を田代で形にしていきたいと未来を描く。「いいメンバーといいチームを作りたい。そのためには、経済的にも、子育てなどの家庭環境の面でも、田代で暮らし、農業をしたいと思ってもらえるような基盤を整えることが必要だと思っています。定時で働けて、土日はちゃんと休む。家族が無理に手伝う必要もない、働きやすいシステムを作りたい」ときっぱりとその理想を語った。

柿迫さんが考える、田代の農業を強くしていく切り札は「田代米」だ。田代の環境だと、寒暖差があり、さらに近年の気温の変動も加わって、園芸作物で利益を上げ続けていくことは難しいと感じている。だからこそ、この環境をプラスに生かせる米作りにかけてみたいと思い、この数年間で米と麦の生産に全移行する予定だ。実は昔から「田代の米は美味い」と言われていて、20年ほど前までは生産が盛んだった。しかし、近年は担い手不足などで生産量が減ってきていて、その魅力も外の人にはほとんど知られていない現状があると言う。

美味しい「田代米」を本格的に復興させて、この地の農業をもう一度元気にしたい。小さな圃場をどのように工夫すれば効率よく生産できるのか、美味しさをどう伝え、どのようにブランド化していくのか…。これからの課題はいろいろあるが、それもまた乗り越えるべき壁として、柿迫さんを奮い立たせるチャレンジの種になるのだろう。

柿迫さんは「まだ構想段階ですが…」と断りつつ、法人化したその先に、米・麦を中心とした農業事業と共に、農作業受託事業(農機オペレーター)、農機の整備事業も立ち上げたいというビジョンも語ってくれた。地域の高齢農家には「俺が請け負うから辞めないで頑張ってくれよー」と声をかけているそうだ。

柿迫さんがこの地で農業を営み、新しい道を切り拓いていくことは、すなわち田代の農業を守ることにつながっていく。同じ方向を目指せる仲間たちが増えていけば、その夢はより力強く実現に近づいていくだろう。それは地域の将来を担うスケールの大きな仕事であり、やりがいのあるチャレンジになるに違いない。話を聞いているとワクワクして、柿迫さんの、また、田代の農業の未来がとても楽しみになった。

田代の農の風景を未来へつなぐ

話を聞き終えた後、柿迫さんはちょっとほっとした表情になって、農園の目の前に広がる畑へ向かった。柿迫さんに農業を教えてくれた祖父母は今も健在で、その日も畑で汗を流していた。柿迫さんが近づくと、早速、祖母があれこれと畑仕事に注文をつけてくる。祖父は穏やかな表情を浮かべながら黙々と作業を続けていて、その二人の対照的な在り方がなんともいい。祖父母と柿迫さんとのやりとりを見ながら、大人になっても可愛い孫には違いないのだとほほえましく感じた。無口な祖父がぽつりと言った「あれはイッコガンやっでな」という言葉が頭に残る。おそらく、一本気な性格という意味の方言なのだろう。

幼い頃から心に刻んできた田代の美しい農の風景を受け継ぎ、未来へつないでいく。柿迫さんは、地域の農業を担うという大きな役割を持ちながらも、そのシンプルな想いを原動力に、自然体で楽しみながら前へ進んでいくのだろう。畑の道を気持ちよさそうに歩いていく姿を見ながら、そう思った。

取材・文 | 小谷 さらさ
写真 | 小野 慶輔