いちご農家

上鶴拓仁さん

はじめて見た栽培風景に感動
未経験から始めたいちご農家

田代麓、国道448号から一本入った先に、上鶴拓仁さんが管理するいちごハウス4棟がある。訪れたのは11月下旬、外の風は冷たいが、ハウスの中は暖かい空気が満ちてほんのりといちごの甘い香りが漂う。鮮やかないちごの実は宝石のようにつやつや輝いており、整然とならんだ苗からとてもきれいに管理されている様子が伺える。

その印象を伝えると「きれいですか?そんなことはないですよ」と上鶴さんは言うが、多くの農業の現場を見てきた錦江町役場産業振興課の小川さんも「すごくきれいに手入れされていると思います」と話す。上鶴さんは2021年に農業未経験から就農していちご栽培を始めた。上鶴さんが就農した1年後に小川さんが担当になり、以来2年の付き合いだ。              

いちごを育てるには、ハウスや暖房設備の設備投資が必要な上に、栽培技術も要するように思える。全くの未経験から始めた上鶴さんは、どのようにして今に至るのだろうか。上鶴さんは「全然深い理由はなくて、いちごが作りたかっただけ」だとさらりという。その道のりを話してもらった。

いちごが実る風景に感動して

上鶴さんは高校卒業後に造船会社で3年間働いた後に退職、しばらくしてから農機具メーカーに再就職する。きっかけは農業への興味というよりも、届いた地方税の通知だった。「造船会社の給料が良かったので、結構な額の地方税の支払いが来ちゃって。翌年に税金の通知が来るって知らなかったんですよね。働かないといけないなと思って慌てて仕事を探しました」

農機具メーカーでは営業として、トラZクターや耕運機などの農業機械の販売から定期訪問、修理対応などを担っていた。根占の営業所に転勤になり、田代を中心に営業であちこちを回ることになり、その中でいちご農家との出会いが転機となった。

「いちご農家さんと知り合って、修理をお手伝いしたら『いちご持って行かんね』って言ってもらえるかなっていう甘い考えで訪問した」と上鶴さんは振り返る。しかし、ハウスの入った瞬間、いちごの美しさにすっかり感動してしまったという。

「いちごが実っている様子がすごくきれいなんですよ。いちごは好きだし、すごいな、いつか自分もしてみたいなと思ったのがきっかけです」

いちごは多くの人から愛されているフルーツだ。しかし、自分で作ろうと思うようになるまでは距離があるように思える。作りたくなったのはどうしてだろうか。上鶴さんは「本当に全然深くない、軽い考えなんですよね」と言いつつ、少し考えながら「土地柄的にいちご狩りとか行ったことがなかったので、そういうのもあるかもしれないです」と話す。今まで現場を見る機会がなかったからこそ、いっそう心に刻まれた感動が深かったのかもしれない。

引退するいちご農家から施設を引き継ぐ

しかし、上鶴さんは農業未経験。さらにいちごの場合、ハウスを建てるだけでもかなりの資金が必要になる。ハウスを建てる土地探しも大変だ。苗を植えてから収穫してお金になるまでも数カ月の間があり、無事に生育する保証はない。新規就農に対する国の補助制度はあるものの、未経験の個人がゼロから始めるにはハードルが高い仕事ではある。

上鶴さんは周囲の人たちに「いちごを作りたい」という気持ちを伝えていた所、知人から現在の場所を紹介されることになった。ここを管理していたいちご農家が引退するとのことで、ハウスの借り手を探していたそう。

少し考えたいと伝えると「もしやるなら苗を取らないといけないし、早く決めないと今年度植えられない」と聞き、奥さんの同意を得られていたこともあり、仕事を辞めていちご農家を始めることをスピーディーに決断。すぐに退職届を職場に提出した。

「やめるって人がいて、それじゃあやろうかなくらいの気持ちです。本当タイミングだけだったかもしれない。農業をしたいっていうか、とにかくいちごを作りたいだけでした」

ハウスを借りて就農

上鶴さんはハウスの貸主を師匠と呼ぶ。師匠からどのようにハウスを引き継いだのだろうか。

まず、土地に関しては元々師匠も借りていた借地であるため、農業委員会を通して貸主と契約を交わして賃料を支払っている。そして、暖房機などの設備を含めたハウスは「上鶴さんが農業をやめる際には更地にして返す」という条件で師匠から個人的に借りている。

賃料を支払って借りる形式のため、上鶴さんとしては「引き継いだ感覚は全くない」のだという。農業を始めるとき、必ずしも自分でハウスを建てなくても、さらには事業承継という形で経営を引き継がなくても、貸主と借主の間でうまく目的が一致すれば「借りて始める」という選択肢もある。

産業振興課の小川さんは言う。「今までは施設園芸を辞める人たちがほんどいなかったんですよね。自分でハウスを建てているので。ただ、従事している方たちの年齢が上がってきているので『施設があるから借りないか』という話は今後もっと出てくるのではないかと思います」と、今後は役場としても何かできないか模索中とのこと。

現在、錦江町の農業従事者は65歳以上が全体の約6割(*)を占めており、高齢化が進む中、今後の後継者をどうしていくかは農業における課題である。「役場が入るときちっとしなくてはいけないところも出てくるのですが、お互いで決めてスムーズにいくのは一番いいですよね」と小川さん。

自分のやり方を探していく

そうして始まったいちご農家の仕事は、毎日がわからないことだらけ。「なめてましたね。苦労っていうか全部が大変でしたよ」と上鶴さん。師匠は腰を悪くしていたため、現場に来て指導してもらうわけにはいかない。やるべきことを口頭で教えてはくれるが、農業未経験者の上鶴さんにはピンとこないことばかり。

「言っていることの意味もわかんないから、聞いた後に今度は他のいちご農家さんのところへ聞きに行くんですよね。でも、農家それぞれで作り方が違うんで、正解がないんです。結局のところ、自分のところでどうなるかを自分で見ないといけないから」

師匠の奥さんは元気なので、パートをしてもらって教えてもらいつつ、基本的には自分で判断しながら進めていった。失敗を繰り返しながらも、ネットで調べたり、先輩農家に聞きにいったり、日々試行錯誤を重ねて自分なりのやり方を探していく。

台風の時期には、思わぬ失敗を経験した。台風通過後にハウスを見に来ると苗は無事に見えてほっとしていたが、その後苗の生育状況が芳しくない。

「おかしいなと思って肥料入れたり、消毒したりするんですけども、なんか全然ダメで。いろんな人に聞いてみると『根腐れしてる?』と言われて。台風の後に見に来た時は無事だと思ったけど、実はけっこう浸水していたんだとわかって。経験がないから気づかないんですよ」

二作目、三作目と経験と失敗を重ねることで、わかることが増えていった。最初に師匠に伝えられてピンと来なかった教えは、後から理解が追いつくことも。「でも毎年もうちょっと大きく作れたんじゃないかなとか、いろいろ思いますね」

収穫時期に入ると、早朝からいちごの摘み取りが続く。いちごが実れば実るほど仕事開始時間は前倒しになっていき、一番忙しい時期は朝4時から収穫を始める。デリケートな果物なので、収穫時に果肉に傷をつけないようにしなくてはいけない。「収穫始まってしばらくはとにかく神経を使いますね。つぶしたらもうなんもならないんで。慣れてくるとそこまで気を使わないですけど。詰め終わらないとまた明日も同じ量のいちごがなってくるから」

繁忙期になると、奥さんも仕事が休みの日には収穫の加勢に。収穫は11月から5月までと約半年間続く。それ以外の時期も、やるべきことは多く、ハウスに来ない日はないという。

おいしいいちごを作る

「いちごが作りたい」から始まった農家の仕事、わからないことばかりで苦労もしたが、今は自分に合っていると感じているそう。「以前の営業の仕事は何千万って年間ノルマがあるのでプレッシャーもあるし、電話やクレームも来るし、現場でわかりませんって言うわけにもいかない」と前職では顧客対応で神経をすり減らすことも多かったそう。今は大変なことはあるが、決して嫌ではないのだという。

今後の目標は、いちご栽培の技術を磨いていくとともに、出荷できないいちごの加工に取り組むことだ。「やっぱりもったいないので廃棄をなくしたい」と、表面の傷などで出荷できないいちごを加工品にする6次化産業に取り組み、将来的には販売店舗を持つことにも興味があるそう。

「ですけど、現実はそう甘くないよねって話で。とにかく今はおいしいいちごを作って、赤字にしないのが当面の目標です。子どもを路頭に迷わすわけにいかないので」

錦江町でも、子どもたちに剣道の道を           

最近の上鶴さんの大きな関心事は、子どもたちの部活動だという。上鶴さんは奥さんと子ども3人の5人家族。3人目の子どもはまだ小さいが、上2人の子どもは神川剣道スポーツ少年団に所属して剣道をしている。

「団員が少なくて、メンバーは6~7人です。神川剣道スポーツ少年団では町内外問わず団員募集中なので、興味がある子にはぜひ参加してほしいですね。いちごでも週2回くらい手伝ってくれる人を探していますが、それ以上に子どもの部活に入ってくれる人がいて続いてほしいと思っています」と、地域の部活動の今後に思いを馳せる。

上鶴さんも学生時代は剣道をしており、今でもたまに一般の試合に出たりしている。「今回の取材は団員募集を伝えたかったんです」と冗談めかして言うが、その思いは切実だ。

取材の最後に、「食べていいですよ」とハウスのいちごを食べさせてもらった。実ったいちごの中から、真っ赤に熟したおいしそうなものを探す時間は、心がわくわく浮き立つ。食べてみると小粒ながら味がぎゅっと詰まったいちごは、みずみずしくて甘さがしっかりある。

「甘さはこの時期まだ全然ですよ。もっと寒くならないと」と、上鶴さん。これからまだまだおいしくなっていくいちごが楽しみだ。

(*)2020年時点

取材・文 | 横田 ちえ
写真 | 小野 慶輔