株式会社大山組 専務取締役 

大山 創央さん

ポジティブに道を拓く次世代のリーダー

錦江町、かつての夏。商店街のメイン通りにシャンシャン馬の行列が通り、若い衆が大きな神輿を勢いよくかついで練り歩く。子ども達は可愛らしく飾り付けた小さな神輿でその列に続く。そして明日は夏祭り…。にぎやかに湧き立つ町の風景に、心を躍らせていた少年がいた。その人が大山創央さんだ。

少年は成長し、29歳になった。現在は、父である大山卓郎さんが社長を務める土木建築会社・大山組の専務取締役を務める。昨年、創央さんが町内外で脚光を浴びる出来事があった。第48回「若い経営者の主張」大会(鹿児島県商工会連合会・同青年部連合会共催)に出場し、演題「よみがえれ 錦江町商工会青年部 ~繋がる力~」を発表。見事、県最優秀賞に輝いたのだ。

演題の「よみがえれ」には、父の世代が中心メンバーだった時代の商工会青年部の活気をもう一度、という想いを込めた。創央さんが幼い頃に心躍らせた夏祭りの盛況には、当時の青年部の活躍があった。今、あらためて青年部の活動を通じて、自分たちの世代とその親世代がつながり、また若い世代の横のつながりを強くしていくことで、地域ににぎやかな風景を取り戻していきたい、と想いを訴えた。

小学校1年生のときの夢は「社長」

経営者の主張大会で最優秀賞、数年で商工会青年部のメンバーを増やし、地域の夏祭りを盛り上げる姿が新聞にも紹介された。いつも仲間の中心にいる、若きスタープレイヤー…。華々しい実績からそんな人物像を思い描きながら、大山組の事務所を訪ねた。

社名が刺しゅうされた青色のポロシャツで現れた創央さんは、日に焼けた顔でにこやかに迎えてくれた。がっちりとした体格で屈託なく笑う姿には確かに華がある。一方でさりげなく周囲にも気を配り、場を和ませる姿に人柄を垣間見た気がした。

大山組はこの町で創業して約50年になる。初代の祖父の急逝に伴って、父は若くして事業を継いだ。創央さんは、その奮闘する姿を見ながら、一人息子ということもあり、いつかは自分が…と幼い頃から事業を継ぐことを意識していた。小学校1年生のときに「ゆめはしゃちょう」と文集に記し、社長の椅子を見て「俺はここに座る」と宣言したというから、道ははっきりと見えていたのだろう。

その将来像をふまえて、鹿屋工業高校・建築科から熊本の崇城大学・建築学科へ進学。卒業後は福岡の有名建築家事務所へ就職した。「大山組は主に土木建築が中心の施工サイドなので、設計・デザイン等の建築について深く知りたかったというのがあります」とその選択の理由を話してくれた。ここで社会人としてのいろはを学びながら、一方では有名事務所の所員として現場では「先生」と呼ばれ、年上の職人に指示を出す立場に。その後、有名アウトドアブランドの運営会社に転職。しかしコロナ禍で店舗事業が休止になったことを受けて、ゆくゆくは町に帰るつもりだったことや子どもが誕生したこともあって職を辞し、緊急事態宣言の発令を前に帰郷した。

大きな挫折を経て見えてきた道

創央さんが町に帰り、大山組に入ったのは25歳のとき。都会で経験を重ね、自信を持って仕事を始めたが、いきなり大きな壁にぶつかった。これまでのやり方が通用しなかったのだ。建築と土木のやり方の相違もあり、現場の職人とは軋轢が生まれ、社長にも「もっと効率化すべき」と意見した。「まったく上手くいかず、悔しい想いもしました」と振り返る。ある日、ついに体がストップをかけた。「帯状疱疹ができ、激痛で仕事にならなくなりました」。医師にストレスが原因だと指摘された。その後、社長も同じ症状に。この出来事は、創央さんが自分を見つめ直す大きなきっかけになったそうだ。

「今考えると、社会に出て2、3年なのに調子に乗ってんじゃねえぞって、当時の自分に言ってやりたいです」と笑う。あらためて自社の環境や社員の仕事のやり方を見てみると、ベテランたちが高い技術を持ち、どんなに小さな仕事でも手を抜かずにやり遂げる姿に気が付いた。社長の長年の経験に裏付けられた手腕の凄みも実感するようになった。そして、自分のやり方を見直し、あらためて土木の勉強にも取り組み、建築現場で活用できる資格(一級建築施工管理技士補)を取得。一人で抱え込んでしまう完璧主義者だったところを、チームでどのように仕事を成し遂げていくかも考えるようになった。「昔は1本の太い幹だけでドーンといくしかないと思っていたけれど、根さえちゃんと張っていれば100本の幹を立ててでも、同じゴールにたどり着ければいいと考えが変わりました」。少しずつ土木のことも分かってきて、幅を持てるようになったのかもしれない、とも語ってくれた。

次世代のチームで事業をより強く

現在の大山組の事業は、コロナ禍で一旦落ち込んだものの、その後の受注は順調だ。社員は14名。腕のいい職人がそろうが、平均年齢は60代と高めだ。「とにかく人材です。即戦力になってもらえるような30、40代の社員が増やせたら、ベテラン社員との相乗効果で、事業もさらに伸ばすことができると思います」と創央さんは熱を込める。インターネットで全国から現場施工管理者や技術者見習い士を募集したり、特定地域づくり事業協同組合を活用してマルチワーカーを受け入れたりと積極的に求人を行っている。創央さんは「次世代のチームをつくり、今の高い技術を引き継いで、会社をより一層強くしていきたい」と意欲的だ。社長も「旧いやり方にこだわることなく、若い人が町に残ってくれるような魅力ある仕事を(創央さんを中心に)つくっていってほしい」と期待を寄せる。創央さんの入社を機にCG制作などの新分野の仕事も始まり、AIの活用やDX化の検討も始まった。確かに大山組には新しい風が吹き始めている。

町おこしは“自分事”として取り組む

創央さんが、仕事と同じく情熱を傾けるのが町おこし活動だ。幼い頃から、地域を盛り上げる若者たちに憧れを抱いてきた創央さんは、帰郷して間もなく商工会青年部に入る。しかしそのとき、部員は数名しかおらず、全員が年上だった。危機感を抱いた創央さんは、地元に残る同級生の経営者や後継者の友人達に積極的に声をかけた。そして、現在は部員5名から19名に、平均年齢も40代から20代へと若返った。

青年部の活動は充実している。「錦江町レゲエ祭」に出店したり、夏祭りを4年ぶりに復活させたりと活躍は目覚ましい。「何もないところから生み出すのも楽しいし、既存のイベントにアイデアを出し合って肉付けをしていくのも面白い。驚くような提案をしてくれる若手もいて刺激を受けています。入ってくれた人が『やってみたら楽しいじゃん』って思ってくれたら」と目を輝かせる。一方で、活動への情熱が、楽しさだけではないことも率直に話してくれた。「メンバーは事業の後継者や経営者が多いから、町を盛り上げる覚悟が半端ないんです」。町の事業者にとっては、町が元気になることは自社の経営に直結する。つまり “自分事”なのだ。「みんな心の隅に危機感を持っているというか、それを意識しているからこそエネルギーが出てくるというのはあるかもしれないです」

創央さんは町の現状についてこう語る。「最初に自分が帰ってきたとき、町の帳簿を見たんです。そしたら以前より数千人も人口が減っていた。最初は『まじかよ…』って落ち込みましたが、最近は『人口が少なくなっているのが別に弱い所じゃない』って思い始めて。小さな町だからこそ、人と人がつながりやすいし、可動域が広がっていいなと思っています」

創央さんは、仕事と町おこし活動の両立は全く苦にならないそうだ。父・卓郎さんは若いときには青年部で活躍し、現在も商工会の副会長を務め、長年イベントの実行委員長も続けている。母・洋恵さんも「錦江町まち・ひと『MIRAI』創生協議会」の理事のほか、地域おこし協力隊が立ち上げた会社の取締役も務める。家族全員が地域に協力するのが好きで、自然に体が動く。明るい笑顔を絶やさないご両親が応対してくれたが、創央さんに流れる“陽”のDNAを2人から感じずにはいられなかった。「自分たちだけよければいいというのは絶対嫌で。小さな町だからこそ、助け合いじゃないけれど、みんなでよくなっていければという想いがあります」と創央さんは語った。

 みんなが活躍できる環境を創る

創央さんの話を聞いていて、感じたことがある。壁にぶつかったり、弱点になりそうなことでも、それを成長のきっかけにしたり、強みに反転したりと、ポジティブに転換するのがうまいのだ。事業経営でも町おこしでも、常に壁は付き物だし、向き合うべき課題も多い。しかしそれを前向きに捉え直し、明るい方へ導いていくリーダーがいると、可能性は大きく広がっていく。創央さんには、その資質が大いにあるように思えた。

創央さんの学生時代の話で、印象的なエピソードがある。小さい頃から打ち込んだ硬式野球で高3の夏にメンバーから外れた。そのとき創央さんは、気持ちを切り替え、部員のモチベーションを上げる動画をつくって仲間を盛り上げることに全力投球し、好評を博したそうだ。この話を聞いて、創央さんは、実は、自分が目立つことよりも、みんなを盛り上げて笑顔にすることが喜びなのではないか、そんな思いを強くした。新しい時代のリーダーは、率先して道を切り拓きながら、地域の仲間や会社の社員がのびのびと個性を発揮できるような環境を創り、そのエネルギーを集めて燃え上がらせ、地域に活力を生み出していくのだろう。次世代の若者たちが創る元気な町の未来を想像しながら、「創央」という素敵な名前にご両親が込めた願いに思いを馳せた。

取材・文 | 小谷 さらさ
写真 | 小野 慶輔